STUDIO TORIUMI / OBSERVATORY
2018年、中国でゲノム編集された赤ん坊が生まれました。 アメリカでは研究者でない人間が自分にCRISPRを注射しています。 そして実験室では、同性の親だけから子どもが生まれるようになりました。 どれも実話です。ただし、報道された姿と実際に起きたことは、かなり違います。 このサイトは何が起きて、何が起きなかったかを、都合の悪い部分ごと記録します。
ゲノム編集のニュースは、この一点を区別しないまま報じられることが多い。 ここを分けると、あとの話が全部整理されます。
体細胞の編集は、たとえ失敗しても決めた本人が引き受けます。自己責任が成立する。
生殖細胞は違います。編集されるのはまだ存在しない人で、その人は拒否できません。 さらに、その人の子、孫にも渡っていく。同意を取る相手が原理的に存在しない—— これが「越えてはいけない線」と言われている理由で、技術の危険性とは別の話です。
いま「遺伝子改造ベビー」と呼ばれている出来事の中身です。 強化(エンハンスメント)の試みではありませんでした。そこが最大の誤解です。
南方科技大学の研究者だった賀建奎が、香港でのゲノム編集国際サミットの直前に 「編集した受精卵から双子の女児が生まれた」と公表しました。 翌2019年には3人目(通称エイミー)も生まれています。
狙ったのは CCR5 という遺伝子です。HIVがヒトの細胞に侵入するときの入口になるタンパク質で、 これを壊せばHIVに感染しにくくなる——という理屈でした。 父親がHIV陽性だったカップルが対象です。
賀は2019年12月に「違法な医療行為」で懲役3年・罰金300万元の判決を受け、2022年に出所しています。
①医学的な必要がなかった。父親がHIV陽性でも、精子洗浄という確立した方法で
子への感染はほぼ防げます。危険を冒す理由が最初から無かった。
②狙った変異が入らなかった。HIV耐性で知られるのは CCR5-Δ32 という自然界にある特定の欠失ですが、
実際に作られたのはそれとは違う、機能が誰にも分からない新しい変異でした。
③モザイクが残った。全ての細胞が均一に編集されたわけではなく、
編集された細胞とされていない細胞が混じった状態になっています。
④CCR5を壊す副作用がある。この遺伝子を失うとウエストナイル熱やインフルエンザで重症化しやすくなることが知られています。
HIVを避けて別のリスクを負わせた形です。
CCR5を壊すと記憶力が上がるというマウスの研究(2016年・UCLA)が存在するため、 「賀は知能強化を狙っていたのでは」という報道が当時流れました。 本人は否定しており、証拠もありません。ただし、この論文の存在が 「デザイナーベビー」の連想を強く後押ししたのは事実です。
逆方向の話もあります。2019年、CCR5-Δ32を両方持つ人は死亡率が21%高いという論文が Nature Medicine に出て大きく報じられましたが、この論文は同じ年に撤回されました。 英国バイオバンクのデータで遺伝子型の判定を誤っていたためです。
つまり強化の根拠も、危険の根拠も、どちらも足元が崩れています。 分かっていないことを土台にして、取り返しのつかない編集が行われた——それがこの事件の本体です。
こちらは体細胞側、つまり自分で止まる編集です。同意の問題は無い。 代わりに、ほとんど何も起きなかったという別の問題があります。
元NASAの研究者で、DIY生物学のキット販売会社 The ODIN の創業者。 学会の壇上で、ミオスタチン(筋肉の成長を抑える遺伝子)を壊すCRISPRを自分の前腕に注射しました。 理論上は筋肉が増えるはずでした。
何も起きませんでした。注射した局所の一部の細胞にしか届かず、 筋肉量に測定できる変化はありません。ザイナー自身が後に 「人に真似させるべきではなかった」と公に後悔を表明しています。
成人の体には数十兆個の細胞があります。注射で編集できるのは、そのうち針の周辺のごく一部だけ。 受精卵の一個を編集するのと、成人の全身を編集するのは、難易度が何桁も違います。 バイオハッキングが派手に見えて成果が出ないのは、ほぼこの一点に尽きます。
HIV陽性の当事者が、未承認の遺伝子治療を生配信しながら自分に注射しました。 抗体を体内で作らせてウイルスを抑える、という発想です。
ウイルス量は下がりませんでした。彼は後に通常の抗HIV薬に戻っています。
Ascendance Biomedical のCEOとして、テキサスのイベントで 未検証のヘルペス治療を壇上で自分の太ももに注射しました。 この会社は末期患者に未承認の治療を提供しようとしており、当時から強い批判を受けていました。
2018年4月、28歳で死亡。フローティングタンク(感覚遮断タンク)内で発見され、 事故による溺死と判断されています。 注射との因果関係は認められていません——が、この分野の無秩序さを象徴する出来事として記憶されています。
BioViva社のCEO。アメリカでは承認が下りないためコロンビアへ渡航し、 テロメラーゼとフォリスタチンの遺伝子治療を自分に投与しました。 テロメアが伸びたと主張しています。
ただし査読を経た論文にはなっておらず、対照群もありません。 測定方法にも批判があります。本人が経営する会社の宣伝でもあるため、 データとしては扱えないというのが専門家の一般的な評価です。
2017年11月、FDAが「自己投与用の遺伝子治療キットの販売は違法」と明確に警告しました。 カリフォルニア州は2019年に、DIYのCRISPRキットに自己投与を想定していない旨の表示を義務づける州法を通しています。
やめておいてください、という話ではなく、事実として書きます。 公開されている自己実験で、意図した効果が確認できたものは一つもありません。 危険の割に、得られたものが無い。
ここはマウスの話で、ヒトではありません。ただし、生殖の前提そのものを動かした点で、 このページで一番射程が長い研究かもしれません。
メス2匹の遺伝情報だけから生まれたマウス(両母性)が29匹誕生し、 そのうちの個体がさらに自分の子を持つところまで確認されました。健康でした。
同じ研究では父親2匹からの子(両父性)も生まれましたが、 48時間以内に全て死亡しています。母2匹と父2匹では、難易度がまるで違う。
哺乳類にはゲノム刷り込み(インプリンティング)という仕組みがあります。
一部の遺伝子は父由来のコピーだけ、あるいは母由来のコピーだけが働くように
印がついていて、両方揃わないと発生が破綻する。
この研究がやったのは、その印のついた領域を狙って削ることでした。
両母性では3か所、両父性では7か所。父側のほうが必要な操作が多く、それが生存率の差に出ています。
アプローチが違います。刷り込みを削るのではなく、 オスの細胞(XY)から性染色体をXXに変えたiPS細胞を作り、そこから卵子を育てた。 つまりオスから、機能する卵子を作ったわけです。
その卵子を別のオスの精子と受精させ、父親2匹だけを由来とする仔マウスが誕生しました。
ただし効率は極めて低い。630個の胚から生まれたのは7匹で、成功率は約1%です。 林自身が「ヒトへの応用にはまだ10年単位の時間が必要で、安全性の見通しも立っていない」と繰り返し述べています。
2018年には48時間で死んでいた両父性のマウスについて、 刷り込み領域への操作を20か所規模に広げることで、 成体まで生存する個体が得られたと報告されました。
それでも生存率は低く、多くの個体に発達の異常が残っています。 「できた」と「安全にできる」の距離は、まだ相当に遠いという位置づけです。
同性カップルの生殖という文脈で語られがちですが、研究者たちが実際に解いているのは 「哺乳類はなぜ父と母の両方を必要とするのか」という基礎生物学の問いです。 刷り込みの仕組みを逆から確かめている、と言ったほうが実態に近い。
ヒトへの応用は、技術的にも制度的にも遠い場所にあります。 ただし「原理的に不可能」ではなくなった——それが2018年以降に起きた変化です。
ここまで失敗と暴走ばかり並べましたが、同じ技術が、線のこちら側では実際に人を助けています。 それを書かないと不公平です。
鎌状赤血球症とβサラセミアという、 激しい痛みの発作と輸血依存を伴う遺伝性の血液疾患に対して、 英国と米国でCRISPRを使った治療が正式に承認されました。
やり方は、患者本人の造血幹細胞を取り出して体外で編集し、戻す。 胎児期にだけ働く別のヘモグロビンをもう一度オンにする、という設計です。 編集されるのは本人の細胞だけで、子孫には渡りません。
臨床試験では、多くの患者で発作が完全に消失しました。 課題は価格で、一人あたり2億〜3億円規模とされています。
生後すぐに CPS1欠損症という極めて稀な代謝疾患と診断された乳児に対し、 その子の変異だけを狙った塩基編集治療が、数か月で設計・製造・投与されました。 フィラデルフィア小児病院。
これが画期的なのは技術より速度と個別性です。 患者が数人しかいない疾患には、これまで薬を作る経済的理由がありませんでした。 一人のために作って間に合わせることが、原理的に可能だと示された。
賀建奎の事例と正反対の位置にあります。医学的な必要があり、本人(と家族)が同意し、 体細胞で、規制の枠内で、公開されている。
国によって細部は違いますが、大枠はほぼ一致しています。
「デザイナーベビーはもう作れるが、倫理で止めている」——これは正確ではありません。
身長や知能のような形質には、数千の遺伝子がそれぞれ極小の寄与をしています。 一つ二つ書き換えても、効果はほぼ測定できません。 賀建奎が触ったCCR5のように単一の遺伝子で結果が決まるものは例外的で、 しかもその一例ですら、狙った変異を入れることに失敗しています。
止めているのは倫理だけではない。技術がまだそこに無いのです。 ただし——だからこそ、効果が読めないまま取り返しのつかない操作が行われるのが、 いま現実に起きているリスクの形です。
ニュースで引っかかるところだけ。これだけで海外の記事もだいたい読めます。
集めていることは支持でも反対でもありません。 この分野は期待も恐怖もどちらも過剰に語られがちなので、 できたこと・できなかったこと・分かっていないことを分けて置くことだけを目的にしています。
医学的な助言ではありません。自己投与は勧めません—— 倫理以前に、公開されている自己実験で意図した効果が出たものが一つも無いからです。
主な出典 ── He Jiankui の事例:第2回ヒトゲノム編集国際サミット(香港, 2018)および新華社の判決報道(2019.12)/ Kang et al., Nature Medicine の CCR5-Δ32 死亡率論文は2019年に撤回/ Li Z-K et al., Cell Stem Cell, 2018(両母性・両父性マウス)/ Murakami K, Hamazaki N, Hayashi K et al., Nature, 2023(オス由来卵子)/ Casgevy:MHRA 2023.11 / FDA 2023.12 承認/ FDA, Information About Self-Administration of Gene Therapy, 2017.11